ストーリーのカタルシス構造:障壁の打破を設計する

コンテンツ,ストーリー,メッセージ,研究

written by Yu Morita.

前回はストーリーを構造的に捉え、感情をゆさぶるカタルシスを生み出す仕組みを考察してみた。主にはストーリーに起伏を起こす物理的障壁、感情的な共感を生み出す精神的障壁について解説し、構造体として考察を繰り広げた。今回はカタルシス構造を活かしながら、物語のクライマックスである「障壁の打破」について魅力的に設定する仕組みを考察したいと思う。

ストーリーのカタルシス構造で映画を分析する

映画「ロッキー」におけるストーリーのカタルシス構造

障壁は基本的に一見して乗り越えるのが困難な「無理ゲー」(※クリアが困難なゲーム)であり、その「無理ゲー」を覆せるか否かがセントラルクエスチョンとなる。日常生活では全体にできないような「無理ゲー」を覆す物語だからこそ我々は没入しカタルシスを感じることになる。
「無理ゲー」を覆すには常識には捉われない挑戦をしなければならない。その挑戦の中で主人公が精神的障壁を乗り越える変化がある。そして、最大の変化は「無理ゲー」=物理的障壁を覆すときだ。障壁を打ち破る瞬間が物語のクライマックスとなる。
しかし、前回の記事で紹介した構造はストーリーのカタルシスを考えるための最小限の要素の定義のみとなっており、障壁の設定にカタルシスを生み出すコツがあることを示しただけだった。本記事では障壁の打破についてもう一歩踏み込んで考えてみたい。

障壁を前にしたジレンマと固定概念

障壁の打破を考えるために、障壁そのものをもう一度見直してみる。
障壁には物理的障壁と精神的障壁があることは前回の記事通り。そして、障壁を簡潔に表すとセントラルクエスチョンが見えてくる。
「〇〇な主人公は△△のために××(障壁)を乗り越えられるか?」
これはすなわちログラインとなる。
映画「ロッキー」の場合、物理的障壁ならば「三流ボクサーの主人公はチャンピオンとの対戦という無謀な戦いに勝てるのか?」というログラインになるし、精神的障壁ならば「人生を諦めた自堕落な主人公は人生を取り戻せるのか?」というログラインになる。
このログラインを少し変化させるジレンマとして表現してみると、障壁の打破を考えるヒントが見えてくる。
「主人公はチャンピオンとの対戦という大チャンスで勝ちたいが、人生を諦めた三流ボクサーだから無謀な挑戦で勝てそうにない(人生を負け続ける)」
この「〇〇したいが、××な理由があるから、△△できない」というジレンマ構文にすると、主人公が「無理ゲー」と思い込む固定概念が見えてくる。実現できない理由「××」こそが主人公が捉われている覆すべき固定概念であり、精神的障壁になっている。映画「ロッキー」における固定概念は「自堕落な生活を送る三流ボクサーである自分は勝てっこない(自分の人生に負け続ける)」となる。この固定概念=精神的障壁を乗り越えない限り勝利を得ることはできない構造になっている。
実現できない理由「××」という固定概念、つまり「無理」が支配しているゲームでは勝てるわけがない。ゲームチェンジャーが必要になる。

固定概念、つまり「無理」が支配しているゲームでは勝てるわけがない

障壁の打破は常識外な発想の転換から始まる

障壁=「無理ゲー」を乗り越えるには、主人公が捉われている固定概念を覆す必要がある。多くの場合、物語は障壁を前にして固定概念に捉われた主人公が危機に陥る。「無理ゲー」の真っ暗闇に落ちた主人公がどのように固定概念を覆し変化できるか?、それがストーリーの醍醐味であり、固定概念を覆した行為によって初めて障壁である「無理ゲー」を乗り越えるクライマックスとなる。
障壁を乗り越える瞬間が物語の醍醐味だが、そのきっかけとなるのは固定概念を覆す発想の転換だ。主人公が捉われていた固定概念を取り払い、新しい視点で世界を見ることで勝利への道筋を発見する。その気づき、発想の転換が主人公を窮地から救う。
物語によっては、しばしば身近な信頼をおける人物やメンターとなる人からの言葉であったり、キーアイテムによって発想の転換が起こる。それでも最終的に発想の転換によって障壁へと立ち向かう決断をするのは主人公自身だ。

固定概念を覆す発想の転換

固定概念を覆すとは、常識外の変化かもしれないが突飛なことだけではない。とらわれていた過去の記憶や自分の主観だけでは気づけなかった視点でも良い。あるいは初心にかえる、というような忘れていた視点を取り戻すことかもしれない。
大事なのは、その視点を得ることで世界の捉え方が大きく変わり、今まで「無理だ」と思っていたことの抜け道や攻略法を見つけたり、あるいは障壁を凌駕するまでの努力ができるようになることだ。固定概念が覆され新しい視点を得ることは(ともすると些細なことかもしれないが)主人公の障壁に対するアプローチは全く変わっていく。
その固定概念を覆す視点の変化こそが物語が伝えたいテーマである。
それでもなお障壁の打破がギリギリ可能かどうか、というレベルに設定するとハラハラとした没入感を得られるストーリーにできる。
映画「ロッキー」の場合、チャンピオンに勝てるか、最終ラウンドまで戦えるのか、そもそも通用するのか、全くの未知数のまま試合に挑むことになる。映画中盤の主人公の努力や精神的障壁の打破をもってしても物理的障壁を打破できる可能性は低いため、視聴者にハラハラとした緊張感と高揚感をもたらす。

固定概念を取り払い、新しい視点で世界を見ることで勝利への道筋を発見する

固定概念も、固定概念を覆す新しい視点も、ともに社会に広く共感される普遍的な倫理観に基づいている方が望ましい。障壁を前についつい抗えず苦しむ主人公にも、新しい視点を得たあとの主人公のどちらにも共感してもらいたいからだ。
もちろん、時代を捉えた新しい倫理観を伝えたいテーマに据えるときもある。その場合でも固定概念には誰もが思い当たるフシがあるはずだし、新しい倫理観も共感されないといけない。主人公の内面の葛藤においては、時代性は捉えながらも普遍的に共感される倫理観に結びつけることが大切だ。

障壁を設定したら次のことを考えてみよう。

  1. 主人公が囚われている固定概念はなにか?なぜ障壁を乗り越えるのが「無理だ」と考えているのか?
  2. 固定概念を覆す新しい視点はどのようなものか?新しい視点は、障壁を乗り越える抜け道となり得るか?
  3. 固定概念と新しい視点は対立構造にありながら、どちらも共感されるものになっているか?
  4. 固定概念を覆す新しい視点は、誰が、何がそれを主人公にもたらすのか?
障壁の打破を捉えたストーリーのカタルシス構造

広告ストーリーにおける障壁の打破(クライマックス)

広告にはさまざまな目的に沿って、さまざまな媒体を活用するが、ターゲットとなる生活者を動機づけをして行動を起こさせる目的にはストーリーが有効になる。
前述の「〇〇したいが、××な理由があるから、△△できない」というジレンマを抱えている生活者が(ジレンマの要因である)固定概念を覆すストーリーに触れて共感したとき、新しい気づきが得られ動機づけされることになる。無理だと思っていたことが部分的にも実現できそうだと気づいたとき、自分の欲求を理解し実現させたいと思うはずだ。
つまり、ストーリーは障壁を打破する疑似体験を通して、人々が気づいていなかった欲求とジレンマに気づかせ自分も打破したいと動機づけすることができる。
動機づけを目的とする場合、障壁=「無理ゲー」を打破する発想の転換はブランドがもたらすことになる。窮地に陥った主人公(生活者)の前に、ブランドが無理ゲーを覆せるゲームチェンジャーとして現れるのだ。
主人公(生活者)が「無理ゲー」だと思っていた障壁を打破する物語を体験した人々が感じ取るテーマは、内なる欲求とジレンマ、ブランドを手に入れれば打破できるという気づきだ。
以前紹介した広告ストーリー構造体ではテーマをベネフィットの理解としていたが、要素が不足していた。広告ストーリーがテーマを通して伝えることができるのは、ベネフィットだけでなく生活者自身が明確に思っていない、あるいは半ば諦めていた欲求とジレンマにも気づかせ、ジレンマを解消したい自分自身の思いに気づかせることだ。

広告における障壁の打破を捉えたストーリーのカタルシス構造

この構造体でジレンマから障壁、とくに精神的障壁を設定しやすくすることで、生活者のジョブとインサイトを捉え、生活者を主人公としたベネフィットストーリーとして設計できるようになるだろう。
障壁を乗り越えて勝利を掴む王道の物語構造に沿って、ターゲットに自分自身のジョブとインサイトに気づかせベネフィット獲得に向けた行動を促す広告が作りやすくなるはずだ。

トップ